四方義朗 様

ファッションプロデューサー

四方義朗

1948年大阪生まれ 主な生業はミュージシャン ファッションプロデューサー。 ”つのだ☆ひろスペースバンド”ベーシストを経て ファッション界に転身。 (株)サル・インターナショナル設立以来、パリ、ミラノ、東京など世界を舞台に年間300本のファッションショー演出を手掛けると同時に、日本のDCブランド大流行に火をつけた。 正当なファッションの歴史、系譜を身に付けながら、自らの体感を重視し、ファッションと時代との有り様を独自の視点で表現してきた。 松田優作からのファッションアドバイザー依頼や、世界のファッションデザイナーからの揺るがぬオファーが四方スタイルへの信頼の証し。 リタイヤ後、古希直前にメンズ雑誌[GG]の専属モデルとして突然復帰、また旧友・岩城滉一とのデュエットCD”Aa!”を発表、音楽界に「45年振りの暴挙!」再デビュー決行。 自分の身体から湧き出す熱を思いのままに発する反骨精神渦巻く”死ぬまでR&Rジジイ”。

私は昭和23年生まれのネズミ年です。
ですから、しばらくすると8月21日に74歳になります。

このような賞をいただけるとは、正直なところ思ってもいませんでした。
私は現役を辞めてから12年ほど経ちます。
はっきり申し上げますと、昭和の男、つまり年老いた者です。

音楽を目指して、実は東京に上京いたしました。
その当時、加藤和彦さんのご自宅に居候させていただいておりました。
当時、奥様はミカさんとおっしゃる方で、その後サディスティック・ミカ・バンドを結成されたのですが、それが新婚だということを知らずに、ずっとアパートで一緒に過ごしていたのです。

田舎出身ですから、廊下を歩いていると、どこかで見たことのある人だなと思うと、それがショーケンだったりするわけです。
今だから申し上げられますが、当時は范文雀さんと同じアパートに住んでいました。
今は週刊誌も大して関心を持たないでしょうから、お話ししても大丈夫だと思います。

その後、つのだ☆ひろとバンドを組み、そのヒット曲は「メリー・ジェーン」だけでした。
365日ずっと「メリー・ジェーン」ばかり演奏し、一度も最後まで間違わずにベースを弾いたことがありません。
当時同じ時期にデビューしたのが、キャロルです。
ですから、永ちゃんなんかと楽屋で見かけると、エレキギターをアンプに繋いでシャカシャカと音を出しながら歌うのですが、この人は歌うために生まれてきたのだと思いました。

一方、高中正義という人がいて、ギターを弾かせると本当に上手いのです。
素人の少年が「高中さん、ギターを買ったので弾いてください」と安物のギターを持ってくるのですが、高中が弾くと、高級なギター並みの素晴らしい音がするのです。
この人はギターを弾くために生まれてきたのだなと感じました。
ギターの技術だけは本当に上手かった記憶があります。

そうしているうちに、バンド活動は自分に向かないなと思い、テレビの仕事を少しやってみました。
その時に、デザイナーの菊池武夫さんからお声がかかり、ファッションショーをやるというお話をいただきました。
好きなことをやってよいから、一度面白いことをやってみろとのことでした。
彼らはロンドンの街を歩いて、モデルではない、ディスコなどで素敵な人たちを見つけて連れてくるのです。
ですから不良ばかりです。
そのようなどうしようもない人たちを、何とかショーで形にしたところ、評判になりました。
1日2回のショーだったのが、客が溢れて次々と来るので、3回も4回も開催した記憶があります。

その後、ジュンという会社からファッションショーのご依頼をいただきました。
当時のジュンの会長は、費用はいくらかかってもよいとおっしゃいました。
当時ジュンは非常に繁盛していて、CMなんかもアヴェドンを起用していました。
驚くほど著名な人ばかりを使っていた時代です。

実に興味深い時代でした。

そのような時代に、私は「ソープバブルオペラ」というショーを竹芝桟橋の倉庫を貸し切って開催しました。
それを見に来たのが、三宅一生さんです。
その翌日に電話をいただき、次回のパリコレをやってくれないかというお誘いでした。
パリにも行ったことがないのに、パリコレだというわけです。
当時はまだモスクワ経由で行きました。今はモスクワには行きたくありませんが。

そのような流れで、今振り返ってみると、昭和と一緒に生きていたのだと実感します。
例えば、80年代は様々なことをやりました。テレビ番組も持っていましたし、ラジオもやり、料理番組にも出演しました。
今思い返すと、昭和が私にとって最も合っていて、最も面白かった時代です。
最終的には、80年代のDCブームやファッションブームの後に来たバブル崩壊で、ほぼ全てを失いましたが、これは仕方がないことだと受け入れています。

実は、私も何度か賞にノミネートされ、大賞をいただくこともありました。
しかし、私のファッションプロデュース業というのは、額を作る仕事だと考えているのです。
絵描きが絵を描いたその作品に対して、どのような額縁を作ればより絵が引き立つかという仕事です。
私は主役ではなく、アーティストが本体だという信念を持っていたので、そのような賞はご辞退させていただきました。
生意気ながら、そのような考えでした。

ただ、今回高橋みどりさんからお話をいただきました。
私は彼女を若い頃から知っていますので、自分から見てまだ若い人に覚えていただいているという部分が嬉しく、厚かましく今日はやってまいりました。
皆様がお忙しいところ、本当にありがとうございました。

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