【北澤良洋さん】洋傘職人は100歳まで現役で、その後は120歳で長寿世界一でギネスブックに載る

いまだに使える明治時代の手作り傘は大林宣彦監督も絶賛

日本で消費される傘の数はおよそ1億2000万本から1億3000万本と言われています。その半数以上はビニール傘で、まさに日々「消費」されている中で、長野県でただひとり、手作りで洋傘を作り続ける職人がいます。善光寺の前で明治10年から続く老舗、三河屋洋傘専門店の3代目店主である北澤良洋さんがその人。多くの人がコンビニエンスストアやデパートで手軽に買っていく傘を、70年にもわたってひと針ひと針手作りで作り続けてきた北澤さんに、今回、第8回プラチナエイジ夢フェスティバル<プラチナ大賞>受賞のインタビューを行い、お話をお伺いしました。

一本の洋傘を作るのにどれくらい時間がかかるんですか?
手抜きすれば早いけど、丁寧にやれば時間がかかりますし、骨の本数や生地の種類によっても違います。よく「1日に何本できるんですか?」と聞かれるんですが、企業秘密ですって答えています(笑)。機械生産ではなく、手仕事で一本一本、針を使ってやっていますからね。

例えば「中縫い」という、骨と生地が離れないようにする工程があるんだけど、それを1回にするのか2回にするのか、しっかり離れないように4回5回とやるか、それだけでも時間は変わります。私が店で売る傘は最低5回はやるようにしているんですが、一般に売られている傘は1回か2回ですよ。

別の取材記事でのインタビューでは、北澤さんの傘は80年もつと言われていましたが、その手間のおかげなんですね。
はい。丈夫で長持ちする、あなたの傘はすごくいい、そう言っていただけるよう70年も研究してきましたから。

私たちがコンビニやデパートで買う傘は、強い風が吹くと壊れてしまうイメージがあるんですが、本来、傘は丈夫なものなんですね。
そうですよ。私も先日、先々代が明治時代に作った傘を使いましたから。その傘は、大林宣彦監督が長野に映画の撮影に来たときにも「古い傘を使いたい」というもんだから、使わせてあげたんですよ。そうしたらとても気に入ってくれてね。終わってから「三河屋さん、これは普段差しに使っちゃいけないよ。映画撮影みたいな特別なときにだけ貸すようにして、しまっておいたほうがいい」って言われまして、実際しまってありましたよ。

大林監督がそうおっしゃるほどの逸品なんですね。
傘は道具ですから、使い方では何十年も、3代にわたって使えるものなんです。傷んだら直せばいいし、そのために私も製造・販売・修繕まで一貫した店としてやってきたわけです。

70年もやっていると傘自体もだいぶ変わったのでは?
初代が明治10年に始めたころは、生地も木綿しかなかったんですよ。あとはシルクとかね。いまは木綿の傘なんてないですよ。みんなポリエステルやナイロン、ウレタンです。ポリエステルがいちばん多いかな。

材料もだいぶ変わったんですね。
そうだね。昔は骨だって1本20円くらいのものから何万円もするものまでありました。

傘の骨で何万円もするものがあるんですか!?
ありますよ。いまはもう作れないけど、クジラのひげで作った骨なんか何万円もしましたよ。いまはもちろんないですけれども、あとは白水牛とか黒水牛とかもありましたね。時代は変わっています。

いまは傘の取っ手を持つところですけれども、主にそこの素材で高級か高級じゃないかが違います。高級品と言われるのは木製とか竹製ですね。プラスチックだと安いですよ。うちでは1本1000円から35000円まで作っていますけれども、いろいろあります。

北澤さんご自身についてもお伺いしたいのですが、先代に弟子入りした理由を教えていただけますか?
実は私、自分から弟子入りしたいと思ったことはなかったんです。そうではなくて、家業だから継がなくちゃいけないということで。私はもともと警察官か教員になりたかったんですよ。それで東京の大学にも合格していたんだけど、先代からは「4年間は遊ばせてやるけど、必ず傘を継ぐんだぞ」と言われて、それで東京の大学は諦めて、信州大学の教育学部に行ったんです。当時はまだ「長野師範学校」と言われていて、それが信州大学になったとき、私は2期生として入ったんです。

そうだったんですね。
小学6年生のときは航空少年隊にも入ったんですよ。6年生になった4月に入って、8月に終戦でしたから5ヶ月でしたけれども、本当にいろんな経験をさせてもらいました。

これがあったから続けてこられたというようなことはありますか?
いまになってみると、技術を見習ってよかったなということですね。大学に行ったとはいえ、ずっと先代の後ろで傘を作るのを見ていたんです。とにかく「見て覚えろ」と言われて、そのころ流行りだしたパチンコも行けないし、麻雀もやれないし、夏休みとか冬休みになっても旅行にも行けないし。家も近くだから、大学の授業が終わるサイレンが鳴ると家でも聞こえるわけですよ。だから帰りが遅いと「なに遊んでるんだ」って怒られますし。しかも「ここはこうやるんだ」とか一切教えてもらえずに、本当にただ後ろからじっと見ているだけでしたから、本当に大変でした。

昔気質というか、職人ならではの教え方ですね。
先代は明治の人間なんで、長さも寸とか尺で、それもそろばんを弾いてやってるんです。でも私はセンチとかメートルで勉強してますから、寸とか尺がすぐに分からないんです。いまなら電卓があるけど、当時はそれもなかったから、本当に苦労しました。結局は信州大学の4年と卒業後の1年で、合わせて5年くらいずっと後ろで見て、それから少しずつ「これやってみろ」「あれやってみろ」と言われるようになったんです。

嫁いできた家内も、同じように姑さんから見て覚えなさいって言われて、4年くらいしてから、ミシンで小さなものを作るようになりました。その代わり、いまになってみれば技術を身につけておいたり、資格をとっておいたりするのはいいことだったなと思います。

北澤さんは「男性は出世傘を持つんだ」とおっしゃっていますが、出世傘とはどういうお話なんですか?
これはね、昔、長野に裁判所の官舎があったんですよ。裁判所の職員は必ず2年で転勤になるんですが、先輩が転勤するとなると、部下が3〜4人くらいで引っ越しの手伝いに行くんですね。そうして夕方に手伝いが終わると、先輩が「今日はご苦労だった。お前らに、お礼代わりに三河屋さんの手作りの傘を買ってやるから、好きなのを選んで記念に使えよ」って言って店に来るんですよ。

それは素敵なお話ですね。
ただ後輩はやっぱり遠慮して、安いのを選ぶんです。でもそのとき先輩は「傘っていうのは頭の上に使うものなんだから、少しでもいいものを使って出世しないとダメだろう」って言うんですね。それで見ていた私も「そうだよ、遠慮しないでいい傘を選びなさい」と言ったら、ようやく後輩も「じゃあ遠慮なしに、こちらの傘を選ばせていただきます」って、いい傘を買ってね。そうやってみんな出世していったんですよ。

それで私もただの出世傘だけじゃつまらないからと思って、「男なら一本持つべし出世傘」と言うようにしたんです。だから、出世傘は裁判所の官舎から生まれたんですね。

そうだったんですね。本当にいいお話です。
昔の先輩後輩っていうのは良かったですね。先輩は後輩をいたわって、後輩は先輩を敬って、そういう上下関係があって出世傘が生まれたわけです。こういう上下関係は素晴らしいと思うんですよ。でも時代が変わって、いまじゃ先輩は後輩の悪口を言うし、後輩も先輩の悪口を言って、昔の勤め人にあったような上下関係はなくなっちゃった。私が口を挟むようなことじゃないんだけどね。まあでも、こんなふうにいろんな経験をさせてもらっているんだから、私は幸せ者ですよ(笑)。

確かに、北澤さんがおっしゃるような上下関係は憧れます。
あとは、出世傘は男性向けですが、女性にも幸せになってもらわにゃいかんと思って「女なら、一本持ちたいほぐしおり傘」も作りました。ここは善光寺が近くだから、ひと針ひと針通すときも、「この傘を使う方が出世してくれますように」「この傘を使う方に幸せが降ってきますように」と祈りながらやる。それが私の傘作りです。

願いを込めてひと針ひと針、ですね。
昨日も諏訪のお客さんからお手紙をいただいて、16年前なんですが「お母さんが着物を作ったから」といって、日傘を4本作ったことがあるんです。その4本はお母さんと、そのお客さんと、その子供と、あとは友達にあげたそうなんですが、昨日もらった手紙には「傘をもらった友達が泣いて喜んでいました」って書いてあって、16年前に作った傘の写真と一緒に送ってくださったんですよ。もうね、こういうの見ると辞められない(笑)。喜びの手紙も励ましの手紙も、たくさんの方にいただいてね、本当にありがたいです。

お客さんに喜んでいただけて、そのお声が届くのは、本当に嬉しいですね。それではそろそろまとめの質問をお伺いしたいのですが、60歳以上のプラチナエイジに向けてメッセージをいただけますか?
高齢者は生活の経験者で、みんな素晴らしい経験があるわけだから、それを次の世代に伝えて、より住みよい、日々是好日の日本にするべく、力になるべきなんじゃないかと思うんですよ。だから、若い世代のお荷物だなんて考えず、我々がいるからいまの日本があるんだっていうくらいの自信を持って、健康に気をつけて、お互いにがんばろうということですね。

最後に北澤さんの夢を教えていただけますか?
私はいま年齢をできるだけ考えないようにしていて、世の中のためになることならば120歳までがんばろう!と思っています。記録を作ることを目標に、長寿でギネスブックに120歳で載ろう!というのがいま思っていることですね(笑)

それは素晴らしいですね! 頼もしいです!
100歳までは仕事をして、100歳からの20年間は、仲の悪いような話は辞めて、笑いながら生きていきたいと思います。

【編集後記】
今回、プラチナエイジ夢フェスティバルの表彰状とプラチナエイジスト認定証をお渡しにお伺いさせていただきましたが、北澤さんは本当にお元気でいらっしゃいました。溌剌とした笑顔と軽快なおしゃべりで出迎えてくださり、製作中の傘を見せていただいたときには、職人としてのこだわりの部分を丁寧に教えてくださいました。何をお伺いしても「あれはこうだった」とすぐに答えてくださるので、90歳という年齢を忘れてしまうほど。70年前に比べたら、現代社会は何もかもがあっという間に変わっていき、「終わったコンテンツ=オワコン」という言葉で片付けられてしまいます。しかし、北澤さんが作る傘は終わるどころか親、子、孫の3代にわたって使い続けられるほどの道具です。ひと針ひと針に、心からの願いを込めて傘を作り続ける北澤さんは、まさにプラチナエイジのお手本となるような素敵な方でした。
プラチナエイジ振興協会はこれからも北澤良洋さんを応援してまいります。

(インタビュー・文/安 憲二郎

本記事に関する連絡先:プラチナエイジ振興協会事務局
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